「神の怒り」の表明の目的 - Part 2
□ 第6ラッパ時とキリストの最臨時の比較考察 ー
この、患難期後半の3時半の後、聖徒たちは「底知れぬ所から上って来る獣に殺される」と表現されている出来事はダニエル 7 章でも言及されています。
「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。 (渡されるー新共同訳) 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。 」ダニエル7:21,25-27
「聖徒たち」はその「手に渡される」と言われていますが、文字通り殺されるとは、ダニエル書では述べていません。
3時半の間、二人の証人と第4の獣(反キリスト勢)との熾烈な霊的な戦いが繰り広げられますが、ついに彼らは獣の手に渡される、これは彼らが拘束され、完全活動停止状態に追い込まれることを表した表現と考えられます。
そして事態の進展は、二人の証人が殺される(完全停止)と、諸国民すべては、その死体を墓に納めることを許さず、「地の住人」は、互いに贈り物を交わす。 それは、このふたりの預言者が、「地に住む人々」を苦しめたからである。 とあるように、彼らの業はユダヤ地方という限られたものではなく、「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する全地に住む人々」に多大の影響を及ぼすもので、全地球的なものだということがわかります。
しかし、三日半の後、「彼らが立ち上がった」という表現は、死んだように全く無活動の状態から、突如、眼を見張るような活気に溢れた様子への変化を見せつけるような何らかの現象が起きるのでしょう。 それ故に「人々は、非常な恐怖に襲われます。」それから、天からの声に呼応して、彼らは雲に乗って天に上り、敵たちはそれを見ます。
あまりに奇想天外な光景だけに、「見た」だけでは、見まちがいに違いないと思おうする人もいるかもしれませんが、そのとき、その神がかり的な出来事の確証と言うか、ダメ押しと言うか、無視も否定もしようもない現実の「大地震」によって、都の十分の一が倒れます。 そしてこの地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめるということです。
しかしこの「大地震」ですが、これは決して文字通りの地震ではないでしょう。 なぜなら、この絶妙なタイミングで起きることが黙示録に記録されているということは、自然災害を予知したというようなものではなく、明らかに神の意思に基づいて、特定の目的をもってもたらされたものでしょう。
また、文字通りの地震では、その被害の対象や損害の規模も特定できない、単なる破壊、災害になってしまいます。
また、「二人の証人」の実態は、文字通り全世界に住んでおり、その業を完全停止させる実力行使となる組織や世界的な協定などが必要なはずですから、この「大地震」も局地的な文字通りの地震というより、それに匹敵する天変地異と言えるほどの、人類を驚愕させる何らかの出来事があるということだろうと思います。
さて、ここで特に注目したいのは、この流れの最後の1文です。 その地震で都の十分の一が倒れ、7000 人が死にます。 「都の十分の一」が何なのか今のところよくわかりません。 しかし、文字通りの地震の不慮の事故ということではないので、選択的なターゲットであることは確かでしょう。
(もしかすると、「都(単数)」とは「大バビロン」のことで、第6のラッパでは「大川ユーフラテス」、第6鉢では「大ユーフラテス川の水が枯れる」ことに言及されていますので、この段階で、(第7の「ラッパ&鉢」で完全に壊滅することになる前に)信者減少などの影響がすでに出ているものと考えられます。
ちなみに、新改訳 (岩波訳 塚本訳 口語訳も同様)では「大ユーフラテス川」と「大」はユーフラテスに掛かっていますが、新共同訳 前田訳では、「大川ユーフラテス」と「大」は川に掛かっています。 原語では「大(ギ語:メガス)」は「ユーフラテス」に掛かっているようなので、「大ユーフラテス川」という表記が正しいでしょう。
おそらくこれは(古代)バビロンに対して「大いなるバビロン」という呼称としたのに対応した表現として実際のユーフラテス川に対して「大いなるユーフラテス」という呼称で表現しているのでしょう。)
「7000 人の死者」についてですが、黙示録の中で用いられる数字は実数ではなく象徴的な数字だという見解も少なからずありますが、私が調べた限りでは、ほとんど全ては実数と捉えて良い根拠があります。 (長くなるのでここではそれについては触れませんんが、過去の記事からお読み下さい)
それで、おそらくこの「7000 人」という表記も文字通りの数で、「死に」、その対象は「二人の証人」の臨終を見届けようとしていた「彼らの敵たち」つまり彼らを手にかけた直接の実行犯グループ、連帯責任のある関係者全員に対する刑執行と考えられます。
そして興味深いのは、この地震を生き残った人々は、第6ラッパが吹かれたときに生じた、火と煙と硫黄とのために生じた災いを「生き残った」人々とは真逆の結果が生じているということです。
彼らは「天の神をあがめた」のです。 この時点で、そうしたということは、その人々はかつて悔い改めようとはしなかった2/3の人々であるということです。 つまり彼らは、ようやくここで「二人の証人の出処、その音信の真実性、実在される神のバックアップによる業であったことを認めて、天の神をあがめたということでしょう。
「神をあがめた」と「悔い改めた」は完全に同義語とは言えないと思いますが、「悔い改めた」人々も相当な数に上るのではないかと思われます。 ヨハネに「もう一度】預言せよとして行われた「ワンモアチャンス」が功を奏したということです。 最終的にハルマゲドンで神と戦おうとするものたちだけが、悔い改めず残るということなのでしょう。
「私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。」- 黙示 19:19
結局最終的に絶滅を被るのは獣に組みすることにした政治支配者とその軍勢だけであるということです。 全人類のほとんどの人は、最終局面までに、神とキリストを認めるようになると考えて良い聖書的根拠がここにあります。
□「二人の証人の死」と「キリストの死」に関する記述の比較考察 ー さて話が少し前後しますが、改めて「二人の証人」が殺されたという部分にもう一度戻ってみます。 「二人の証人」である聖徒たちは3時半後、3日半の間、埋葬もされずに放置されますが、この時の出来事は黙示 11:8 で「彼らの主も同様の扱いを受けたという趣旨のことを述べていますが、主イエスが磔刑に処された時の記述に大変よく似ています。
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。」- マタイ27:50-54
イエスが息を引き取られた直後、大きな地震が起き、墓の中の聖徒たちが出てきて聖都に入り、人々は非常な恐れを感じ神のみ業を得心します。 そして3日間、墓の番をします。
二人の証人の死後、人々は3日半の間、死体をながめ (*)、大きな地震が起き、聖徒たちは、死んだような状態から起きて、聖都(天のエルサレム)に入ります。人々は非常な恐れを感じ神のみ業を得心します。
(*「ながめていて」と訳されているこの語は「ギ語:ブレポ」「見る」という意味の単語ですが、この語はただ単に漠然と眺めると言うのではなく、「観察する、注視する」というニュアンスを持っています。 ですから例えばマタイ 24:2,4 に使われている「ブレポ」は「みはっている」「気をつけなさい」と訳されています。 つまり彼らは、死んだかのように無活動にされた「二人の証人」を見張っていて番をしていたということです) 人々は、「二人の証人」の死を見届けて、「やれやれ終わった終わった」と胸をなでおろして、後は知ったことではないと、そそくさと各自自分のことに戻るのかと思いきや、なぜか、3日半もの間、まんじりもせずという感じで死体を見続けます。 その3日半の間は、諸国民にとって、耳障りな預言をする預言者たちの口が封じられた直後は、喜びあったのものの、それもおそらく束の間で(これは想像ですが)何か異様な雰囲気のある、不気味な予感を拭えないような感覚に囚われた3日間という感じで、立ち去りがたしと言う思いに満たされるのかも知れません。 結果的に「二人の証人」の昇天を見届けることになります。
□「二人の証人の昇天」と「キリストの再臨」に関する記述の比較考察 ー 先に、黙示 11:12 の「7000人が殺された大地震」が文字通りの地震ではないと書きましたが、患難の後の太陽や月など天の万象に異変を感じるのが当にこのときでしょう。 マタイではこの時地震が起きるとは書かれていませんが、「星が天から落ちる」という表現から、巨大な隕石が地球に衝突したかのような、その揺り動かされる衝撃が全地で感じられるに違いありません。
「二人の証人の昇天」と同じタイミングの記述としてマタイの記録を見てみましょう。 この同タイミングのマタイ 24 章と黙示 16 章の表現を比較してみます。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。 すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」」- マタイ 24,30,31
この 30 節の「そのとき」「すると」と訳されている語は、ギ語:「トテ」で、「それから、それに続いて」という意味の語です。 ということで、大患難が終わるとすぐに、太陽、月など天体の異変があり、その異変から人々は天の様子から眼が離せないという状況になるのでしょう。
それから、まず「人の子のしるし」が「天」に現れ、その後、雲に乗ってくる「人の子」を「見る」という順序で物事が進みます。 キリストの再臨は「いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来る」(マタイ 24:27)ということですから、一部の人だけが知覚するとうものではなく、すべての人に明らかに認められる仕方でなされるということでしょう。
最初は「しるし」ですから、それを予期させる象徴的な光景であり、天空に現れるということですが、しかしその後、それとはっきり識別できる「人の子」が「来る」のを見るということですから、見ているうちに到着するということです。
肉眼でこちらに向かって移動しているのが確認できるくらいのスピードでという感じでしょうか。 ですからこのキリストの再臨の時の描写は、段階的に2つのシーンが描かれています。 一つ目は中天、あるいは空中におけるしるし、続いて地上に到来しつつあるはっきり人の子と識別できる姿としてのイエスです。
そして「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わして、四方からその選びの民を集める。 」ということですが、キリストは地上の聖徒たちを集めるのに、み使いたちを派遣するということです。 ですから、「生継空挙(いわゆる携挙)」に与る人々は、「ここに上れ」という声で自らその居場所を探してキリストの元へゆくというのではなく、み使いのアテンダントを介して、招待されるということのようです。
患難前携挙節の信奉者が述べるような、ある日突然、すべての人がごく普通の日常生活を送っている時、ある日、ある時突然、教会は一斉に(一挙に)天に挙げられるということですが、もし、そのうちの一人が、旅客機のパイロットだったら、いきなり携挙されて消えてしまった後のフライト中の飛行機はどうなってしまうのでしょう。 それは電車でも車でも同じです。 通常に、人々の社会活動が普通に営まれている時では、世界中で数え切らないほどの混乱や大事故が起きるのは避けられないでしょう。
一体いつだったら、そうした問題や心配の要らない最適なタイミングと言えるのでしょうか。
7年間に渡る患難期の大患難終了後の、地上のすべての人が天体の異変を認め、宇宙の万物が揺り動いていると感じる時、そしてもはや、この時点で通常の社会機構はほとんど停止状態、人々は疲弊し尽くし、何があっても大丈夫と言い聞かされて惑わされていた人々でさえも、不安と恐怖で何一つ手に付かないような状況でしょう。 人の子が到来されるのはそのような時であり、「生継空挙」も、その時であると聖書は示しています。 すべての事柄を、成し遂げるべく、あらゆる現実的な問題をクリアした形で最善の状況を整え、人間そのものとその社会機構のすべての問題を解決される、神の全能性と善良さにこそ信仰を働かせるべきでしょう
「来るべきみ神のみ怒りの日」に関してその表明となる主の日は確かに恐るべき日になると思いますが、むしろそれは「畏るべき日」になるといえるでしょう。 日本語で同じ漢字を使う「畏まる(かしこまる)」という語の意味は辞書によりますと 1 身分の高い人、目上の人の前などで、おそれ敬う気持ちを表して謹んだ態度をとる。 2 謹みの気持ちを表し堅苦しく姿勢を正して座る。 正座する。 3 命令・依頼などを謹んで承る意を表す。 承りました。 4 恐縮して感謝する。 などの意味があります。 その日にあまりにも頑迷で傲慢な人々は自らに「畏まる」こと許さず、何が何でも歯向かうことに意を決するようです。 それらの人々は反キリストの側に立つものとしてハルマゲドンの突入するのでしょう。