未発表「神の怒り」の表明の真の目的と成し遂げられる事柄「神の怒り」の表明の目的 - Part 1

「神の怒り」の表明の真の目的と成し遂げられる事柄

ハルマゲドン、大患難の際に数え切れないほどの人、クリスチャンとならなかった何億人もの人が無残な仕方で死に絶えるというイメージを持つ方も少なくないかも知れません。 実際、ほとんどのキリスト教会はそのように宣教(宣伝)してきたからです。 しかし私はそれを明確な聖書的根拠を持って全否定します。

この記事では「神の怒り」に関連した幾つかの聖句を引用しながら、それを一つ一つ解説してゆきますが、ここで予め一つのことをお断りしておきます。

【※ ほとんど例外なくすべての解説で、黙示録の「封印、ラッパ、鉢」の話の構造は「入れ子構造(第7番目の封印の中に、第17の全部のラッパの出来事が含まれ、そして更にその第7番目のラッパの中に中に第17の全部の鉢の出来事が含まれている。  封印1から数えると全部で 19 の出来事が順に起きるとされています。 しかし、そのように捉えて内容をつぶさに検討してゆきますと多くの矛盾が生じてきます。 「封印」は実際に生じることではなく、予告編であり、ラッパと鉢は同じ期間の出来事を立場を替えて記されています。 これについての詳細は「[ 封印 ],[ ラッパ ],[ 鉢 ] の相互関係に関する考察」と第するシリーズ4部作 [No.35-38] と、追加改定版「111「黙示録の「封印、ラッパ、鉢」に関する新たな考察」という記事を御覧ください。

】ここで更に前置きとして、いわゆる「災い」という語句について、注目しておきたいと思います。 なぜなら、これは「神の怒り」についての理解、および「ラッパ」「鉢」の性質の決定的な違いを理解する上で重要だからです。 「ラッパ」「鉢」の記述中の「災い」についてですが、各翻訳様々な訳が見られますが、双方どちらにも同様の訳語が見られます。

「ラッパ」の記述中で見られる 「災い」 第1、2、3のわざわい 禍い ( 岩波訳 ) 災い ( 新共同訳 塚本訳 ) わざわい ( 新改訳 前田訳 口語訳 )

「鉢」の記述中で見られる「七つの災害 」 災い ( 岩波訳 ) わざわい ( 前田訳 ) 災害 ( 新改訳 口語訳 ) 災厄 ( 塚本訳 ) ※ 画像

英語でも日本語でも、翻訳された聖書を読む限り、この双方には同じ「災い」を意味する単語が使われていると誰でも考えると思いますが、下の囲み記事をご覧になれば、実際は「ラッパ」と「鉢」に使われている単語は異っていることが分かるでしょう。

これにより、第7のラッパの第3の「災い」が「鉢」の「災厄」とはその性質も目的も異なるもので、従って、「鉢」の内容が第7のラッパに含まれているのではないという証明ともなります。 さて、前置きの説明が長くなりましたが、「神の怒り」に関連した幾つかの聖句を引用しながら、その背後にある目的や、一般に言われているそのイメージの間違いについて解説してゆきたいと思います。

まずは最初に取り上げるのは、これまで幾度となく預言の中で語られてきた「来るべき神のみ怒りの日」の出来事を示す聖句です。

「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。 『行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。 』」黙示 15:1

この「7つの鉢」に関連する続く節で繰り返されているように、「怒りの表明」は同時に「裁き」の執行でもあります。

「あなたの正しいさばきが、明らかにされた」15:4 あなたは、このようなさばきをなさったからです」16:5 あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」16:7

「神の激しい怒りの鉢」が「ぶちまけられた」後の主な結果 第1「ひどい悪性のはれもの」 第2「海の中のいのちのあるものは、みな死んだ」 第3「水が血になる、聖徒 / 預言者の死に責任ある者に血を飲ませる」 第4「人々は激しい炎熱によって焼かれ」(けがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。) 第5「人々は苦しみのあまり舌をかんだ」(けがしごとを言い、悔い改めようとしなかった。) 第6「ユーフラテスが枯れる。王たちをハルマゲドンに集める」 第7「いなずまと声と雷鳴、大きな地震 大バビロン倒壊」(神にけがしごとを言った)

第7では「悔い改めなかった」という記述はありませんが。 「けがし事を言った」とありますから、第4、第5と同様で、「悔い改めなかった」は単に省略されているのでしょう。

この一連の記述で実際に「死」に言及しているのは第3の「海の中の命ある者」に関するものだけで、これに人間が含まれているかどうかは分かりません。 しかし通常、人は「地に住む者」で「海の中の者」ではありません。 ですから、苦痛(死)を与える事になりますが、「鉢」は裁きであり、第4、5,7の鉢などで度々繰り返されて強調されているように、明らかに「怒りを表明するその目的は「悔い改め」に導くという神の願いと目的のために注がれるものだと言って良いでしょう。 神の燃えるような怒りの表明は、有無を言わせぬ蹂躙、侵襲、討伐、暴力などではなく(多大の苦痛、心痛をもたらす天罰的なものとは言え)むしろ、叱責、諫言(かんげん : 過失を指摘していさめること)という形で表明されるということです。

さて、順序が逆になるようですが、ここで今度は「7つのラッパ」に関して同様のことを観察してみましょう。

7つのラッパに関する記述の中で「悔い改め」に関する言及は第6のラッパの時の次の1箇所だけですが、こう書かれています。

「彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」- 黙示 9:18,20

殺されなかった 3 分の 2 の人々が、殺人や窃盗などの常習犯で悪徳極まりない人間ばかりであるなら、殺された 3 分の 1 の人々は何故にどういう理由で殺されたのでしょうか。

(一応、いわゆるクリスチャンを除くという前提にした上で)全世界の人々のうちの1/3は、生き残った2/3 の、殺人、泥棒、不道徳、偶像礼拝などを主な特色とする人々以上に、より邪悪なものであったゆえに殺されたのでしょうか。 それとも、それは偶然で単に運が悪かった、たまたま受けた災いが致命傷になってしまった、ということでしょうか。

ところで「悔い改めなかった」と記述されているということは「悔い改め」が期待されていたということにほかなりません。 冒頭で示したように「鉢」の記述では、「神の怒りを満たした鉢を注ぐ」それはイコール「神の裁き」であることが強調されていますが、「ラッパ」の方では、その中で「さばき」という単語やそうした言い回しは一度もされていません。 第5ラッパは第1の災いと表現されるように基本的に「ラッパ」は「災い」を特徴としています。

このことからも、その行いの源が異なり、ラッパの災いは「反キリスト勢(龍 / 獣 / 偽預言者)」からもたらされるもので、迷惑な災害以外の何物でもありませんが、しかし理由と目的があって、神がそれを許される事により生じている出来事と言えます。 「悔い改め」とは他ならぬ、神に対するものであるのは明らかですから、この災いの一面においては、神からの裁きと無関係ではないと言えるでしょう。 それでここでの「わざわい」が「裁き」としての意味合いをも持つものであるなら、「滅びに値する」という裁定が最終的に下される前に「悔い改めに導く」という何らかの働きかけも同時進行で生じると考えて良い理由があります。

また、「災い」の背後にすべての人の「悔い改め」が期待されたことを考えますと、単なる不可抗力や偶然で「殺されて」しまったということもあり得ないでしょう。

そうであるなら「殺された」人々は、そうした機会をほとんど与えられることもなく即刻死刑執行がなされたということになります。

そしてこの仮説から言うと、1/3は生き残った2/3以上に甚だしく邪悪なものであったということになります。

しかし全世界の人々のうちの1/3は、生き残った2/3 のような人々以上に、より邪悪な者であったとは、論理的にも、聖書中の他の記述から見ても到底考えられません。

これでは、(1+2)/3つまり全人類すべてが、殺人や盗みなどの常習者とそれ以上の邪悪な者だけである。ということになります。

確かに、終末期が近づくにつれ人々の悪徳がさらに増し加わる事は考えられなくはありませんが、しかし相当数の人々は殺人 / 盗みなど決してしようとしない、人間として善良な人々がまだ大勢いるであろうと考えられます。

実際マタイ25章には、終末期にキリストの右と左に分けられる羊とヤギの「羊」はキリストの最も小さな兄弟に人間味のある親切を示すことによって羊とみなされる人々であると示されていますが、そうした人は全世界に少なからず、どころか、相当数存在すると私は思います。

(※ 「羊と山羊」については「16 「羊とヤギ」の「羊」とは誰ですか」を御覧ください。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』…『まことに、あなたがたに告げます。 あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」- マタイ 25:35,36,40

黙示 9:18,20 の「殺された」という表現が文字通りの表現であるとすれば、羊とヤギの羊のような人々は、殺された 3 分の 1 の中に入ってしまっていることになります。 なぜなら少なくとも「右に分けられた羊」は、生き残った2/3の殺人者や盗人や不品行な人々ではないはずだからです。

それどころか彼らは「王国」を受け継ぐ「諸国民」として千年王国の住民となることが約束されています。

やはり明らかにこの表現は象徴的なもので、むしろ、矯正を受け入れ、悔い改めを示した故に、反抗的な世の一部として生きる者としては「殺された」。 そして後の 2/3 こそが、反抗的態度を貫き通した(生き残った)者と捉える方が、文脈としても、他の聖書中の記述とも調和すると考えられるのではないでしょうか。

「ラッパ」と「鉢」に共通したこととして、「・・・悔い改めなかった」というフレーズは少なからず出て来ますが、なぜか「・・・悔い改めた」とされる人についての記述は皆無です。 しかし全世界的な証し(預言)がなされる中、答え応じる人が「0」と言うのは、現実的にはありえないように思えます。

さて、第6のときでさえ「悔い改めなかった」2/3 の人々は結局どうなるのでしょうか。 続く節を見てゆきますと、更にそれに関連した情報を見ることができます。

「 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。 そのとき、彼らは私に言った。 「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。 **」」**黙示 9:10,11

つまり、第7のラッパが吹かれる前に、諸国民に「もう一度」つまりワンモアチャンスが有るということです。

ヨハネに対して「あなたは」と言われていますが、この預言活動は、続く記述から見ると実際には「二人の証人」によってなされる業であろうと考えられます。

(※この「ふたりの証人」は、全地に住む2種類の聖徒たち、つまりユダヤ人(生来のイスラエル人クリスチャン(おそらくメシアニック ジューを含む)と異邦人からなるクリスチャンのグループのことであるという聖書的根拠については「134「二本のオリーブの木」と「二人の証人」に関する考察」をご覧ください)

「 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。 」- 黙示 11:3

そして彼らは 1260 日後、業をなし終えた後、獣に「殺される」ことになっています。 そしてそれから3日半後、大きな地震があり、彼らは天に上ります。

ここにその続きをまとめて引用しておきますが、この後、これらの節に関連した解説を試みたいと思っていますので、その都度、逐次この引用文に戻って確認をしていただければと思います。

「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。 それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。 そこで、彼らは雲に乗って天に上った。 彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。 この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」- 黙示 11:9-14

先に確認しておきますが、14 節からわかるように、この時のタイミングは、すべての預言が成就する、「ことは成った」という宣言が起きることになる、第7「鉢」の直前の出来事を示しているということをまず念頭において下さい。

従って、この時点ですでに後半の3時半は満ちていますので「大患難」も終了しています。

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